演目 貧乏花見、はてなの茶碗、まめだ


桂千朝師匠

高座での横顔


<パンフレットより>

ご飯と味噌汁、ほうれん草のお浸し、豆乳、ししゃも、根菜の煮物、黒豆。我が家のある冬の日の晩餐である。粗食だ。しかし、野菜は全て旬の無農薬有機野菜、宅配業者が届けてくれるやつだ(農家を抜き打ちで検査するそうだから信じてよい)。豆乳は、もちろん国産無農薬大豆百%使用のもので、土鍋に移して、養老の山中にてもとめた炭の火で温めながら湯葉を作って食する。三十分程かけて二十枚程度の湯葉ができる。できる端から醤油をつけて食べるとこれが美味。醤油
ももちろん余分なものの入っていないこだわりの品だ。ししゃもは、いわゆる北欧産の別の魚ではなくて、本物のししゃも(これは捕っているのを見ているわけではないが)。違いは卵が少なく身が多いところだ。これも美味しい。無農薬米で作ったという純米酒がよく合う。粗食がブームだが、粗食といえども現代では大変な贅沢をすることになるのだと気づく。
 宋の『梁渓漫志』に次のような話がある。
  たいそう貧しい男がいた。毎晩香を焚いて天に祈っていたところ、或晩神人が現れておまえの誠を憐れんで願いを叶えてやろうと言う。男は「私の望みは大変わずかなことです。粗衣粗食、山間水辺に逍遥して一生を終えることができれば満足です」と答えたが、神人は大笑いして「それは神仏の楽しみだぞ。おまえは何の功あってそんな楽しみを得ようというのだ。もし富貴を求めるならすぐに与えてやろう」と言って立ち去った。
 この話は「きままな旅」の方に重きがおかれているのだろうが、落語の長屋の人たちの花見も、その豊かな想像力と創造力が、現代人の私たちの目には実にうらやましく、とても贅沢な花見に思えてくる。
 お運びで御礼申し上げます。明日は啓蟄、あと半月もすれば桜の便りも聞かれる季節となりました。千朝師二度目の来演です。春の楽しい噺『貧乏花見』と秋の季節感漂う人情噺『まめだ』、名作の『はてなの茶碗』の三席です。ごゆっくり贅沢な時間をお楽しみください。

<からみニストより>
”師匠のまね”から再構築を

 「第46回小牧落語を聴く会/桂千朝独演会」を商工会議所で見た。入場者89人というのは、この会としてはいい入りである。
 「昔と今では、貧富が様変わりしました。私の若いころは台所に武田のプラッシーがケースであるのが金持ち、私らの家は渡辺のジュースの素・・・」というマクラから「貧乏花見」に入る。ギャグに次ぐギャグの噺だが、いまひとつ弾まない。
 次の「はてなの茶碗」は、京都でも一流の茶道具屋”茶金”の主人と大阪人の担ぎ売りの油屋とのやりとりが聞かせどころの、上方落語中の名作だが、登場人物の描き分けがまだ物足りぬ。
 かつては”米朝のコピー”と言われた千朝が、ブランクの後、高座に復帰してからは、桂枝雀風ともいえる演じ方に転じたのは、物まね達人の彼としては、たとえば大店の主人が”米朝風”にならぬよう意識した結果か。でも、思いきって師匠のまねから、芸風を再構築してはどうだろう。
 強いて陽気に攻めるよりも、人情からにじむユーモアで引きつける方がニンに合う。三席目の「まめだ」の好演が、それを裏づけた。(楽屋雀)

<毎日新聞への投稿から>
女の気持ち 2001.3.14

太鼓、三味線、笛のにぎにぎしいおはやしに乗って、木戸銭を払い、会場に入る。そこは福祉会館の一室である。正面の一段高い場所に、手作りの即席舞台があった。赤い毛せんを敷き詰めて大きな座布団が一枚の高座である。地方に住んでいると、生の落語を聴く機会は少ない。今年初めての「小牧落語を聴く会」に、私はいそいそと足を運んだ。
やがて、おはやしがひときわ高く鳴ると、関西の落語家桂千朝がしずしずと演壇に上った。いきで和服がよく似合う。映像を通して見ていた「お笑いを一席」といった落語とは、月とすっぽんである。つばきが飛び、額にしわを寄せたり、汗がきらりと光る。全身全霊を打ち込む百面相の芸に、私はすっかり魅せられてしまった。会場もどっと爆笑し、興奮のるつぼと化した。
演目の一つ、「貧乏花見」は長屋の住人が桜の花見を計画するという人情ばなし。ほのぼのと温かみを感じ、終わりの落ちも後味がすっきりしていた。会場を見渡すと、若い世代の男女も多く、落語は老若男女に受け入れられる大衆芸能の一種だと感じた。
変化の少ない平凡な日々を送り、心底笑うような話題もあまりない。そんな中、久しぶりに人情と笑いをたっぷり堪能し、命の洗濯をした思いだ。最高にぜいたくなひとときを過ごすことができた。  (能登谷きみ子)

 

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