数学の新任教師に語る
内 容
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1 授業の大原則
当たり前のことだが、うっかり間違いを教えてしまうことがある。
(例) 数には正の数・負の数があって・・・0はどうしたの?
(2) 自分が分かっていれば、教えられると思うのは大間違い。
5−7ができない教師はいない。しかし、?と思う子どもはいることを肝に銘じること。
(3) もし、この問題が分からないという子どもがいたら、どう説明するかをいつも考えておく。
教育書を見れば、「問題発見をさせよ」とか、「興味関心を引き出せ」と書いてはあるが、初めからそんなことをねらっても、うまくいかない。授業の初心者は、まずきちんと子どもに説明できることが大切。
分からない子どもの指導のポイントは、具体例をどうあげるかにつきる。イメージを持たせること。これが大切。
(4) 意図を持って指名し、授業を進めればよい。
子どもの自主的な発言ばかりで授業を進めるのが理想のように言う人がいるが、それは間違い。進んで発言する子どもばかりが活躍する授業では、全体の理解は低いと見よ。
この子どもはどうだろうか、分かっているだろうかと思ったら指名すればよい。確かめるのが一番。また、挙手しない子どもこそ、発言する機会をたくさん与えるべきだ。
(5) 迷わず褒めよ。
いいと思ったら躊躇せず褒めよ。ずばり言い切る。「うまい。」「よく分かった。」
赤ポールペンをいつも持参して「○つけ法」を1時間に1度は取り入れることを心がける。○つけ法は愛知教育大学の志水教授の授業のコツで紹介されている。
(7) 生徒の生き生きとしたノートは、教師の板書の反映でもあると心せよ。
教師の板書がいいものだと生徒のノートも生き生きとしたものになる。もちろん、教師の板書をまる写しするような生徒を育てよ、という意味ではない。自分のノートなのだから、自分でいいように使わせればよいが、教師の板書がいいかげんだと、生徒のノートもいいかげんとなる。これは間違いない。では、いい板書とは?諸先輩の板書を見ることにつきる。
(8) ぱっと見て授業内容が分かる板書をせよ。
いったい今日は何を学んだのか?と思うような板書ではダメ。課題、その課題をどんな考えで、どう解決したかまでが分かるような板書になるといい。
(9) 先生こそ明るく
1番目に書くことかもしれない。先生が明るくないと、全体は暗くなる。授業も活性化しない。
(10) 今日は 「これだけは何が何でも教える」と三度唱える。
要は今日の授業のポイントは何かを忘れるな!ということ。「これだけは!」と事前に的が絞れないようでは、あいまいな授業になる可能性は80%。
(11) 生徒が考え方ことも板書することと。大事なことを板書するなら、生徒の考えが書いてあって当然。
授業の主体は生徒。その生徒の考えで授業を進めるべき。先生のまとめばっかりの板書では、だれのための授業かが見えなくなる。
(12) この時間にはどうなったらいいかを生徒にイメージできるようにしておいて、授業を始める。
今日の授業では「負の数が入ったひき算が楽にできるようになったらいいね。」などと、生徒にその時間の目標が具体的にイメージできるようにしてから、授業を始めることが大切である。到達度評価に通じるものである。目標は先生だけが知っているではおかしい。目標を与えず、黙って先生だけが評価しているなんて絶対におかしい。
(13) 子どもにその教室にいる存在感を与える教師でありたい。
具体的には次のように発する教師。
あなたの質問があったから、みんながよく分かった。
あなたの説明で10名の人が分かったと言ってくれた。
(14) この教材は何のためにあるのかを必ず考えて授業をすること。
教えることばかりに気をとられると、 教材の価値が薄く薄くなってしまう。
教科書の行間を読める教師になってほしい。教科書には残念ながら、なぜ絶対値を学ぶのかを書いていない。いきなり絶対値を説明します、といっても生徒は???。そこに至るまでの筋道を考えてほしい。
(15) 課題を生徒自ら作っているような授業にしたい。
はい、教科書の次のページをめくったら、「正の数・負の数の引き算」になっていますね。だから今からそれを勉強します。これでは系統的な学問を教えている教師としては情けない。
本来なら課題は生徒が作るのが理想。だが、それはなかなか難しい。
しかし、生徒が作ったようにして進めるのはできる。例えば、「昨日は正の数と負の数の加法をやったね。じゃあ、今日は?」と問いかけ、減法、乗法などの言葉を引き出すことはできる。これが生徒が課題を作ったように進めるということ。こうした授業を繰り返していくと、自ずと次の課題を考える生徒が育つ。もちろん、全員がそのように変容するわけではない。育ってくる生徒がいるということ。やらずして育つわけはない。
私は系統的な学問を教えているのだという意識を持ち続けてほしい。
当たり前のようで意外とできていないのが、これ。「発問の前と後には必ず生徒の顔を見る。」
野口芳宏氏が言うように授業では聴衆反応を確かめるのが大切。それならば、発問する前の子どもの顔と後の子どもの顔をしっかりとらえなければならない。とらえていれば、意図的指名も楽々できる。
「あっ、○○さん、何か言いそうだね。」とか「にこっとしたね。考えが浮かんだね。」と。
(17) 子どもの発言が終わったら、他の子どもの表情を見る。
これも「見るシリーズ」の一つ。ある子どもが発言したとしよう。そうしたら、その子どもの発言を聞いている他の子どもの反応を必ず見ること。何かリアクションはしていないかと神経をとぎすます。意図的指名により、子ども同士のやりとりを生み出せるチャンスである。「○さんの意見で、何か思ったね。さあ、それを発表して!」と子ども同士のやりとりを生み出せる。
(18) 子どもが言い終わるまで待つこと。
これも当たり前のようでできていない教師が多い。子どもの発言が最後まで聞けない教師。子どもが言い終わるか終わらないかのうちに「そうだね。そのとおりだね。」と言葉をかぶせてしまう教師。自分が望んでいた発言であったとしても、そんなに教師が喜んでどうするの?
(19) 子どもの発言を黒板に書くのは価値付けの一つ
子どもが発言した。次から次へ発言した。当然、教師はその発言をしっかり聞いていた。しかし、黒板にはなんら記録がされない授業を見た。子どもの発言を認める意味と発言を授業に生かす意味でも、板書にちらっとでも残しておきたい。自分自身は、内容的にちょっとと言う発言の場合でも、なんらかの記録を残してやることを子どもへの称賛と価値付けとしている。
(20) 主発問を発する位置は前で。
子どもの中に入って、教室の中央あたりで、時には発問をするのもよい。時には、机の間を歩きながら、発問をすることもあるだろう。しかし、その授業での主発問は、必ず教室の前、しかも中央で発したい。なぜなら、子どもの反応をとらえるためである。