総合的な学習シミュレーション

99年真夏の衝撃「大変なことが分かったぞ!」

平成11824

 

ややエキセントリックな副題をつけたが、総合的な学習シミュレーションを終えての率直な感想である。おそらく、このシミュレーションに関わった方々は、少なからず同様な感想を持たれたと思う。4日間の取り組みを紹介しながら、どんな大変なことが分かったのかを述べ、今後の方策について提案をしてみたい。

 

<総合的な学習シミュレーションの概要>

期 日  平成11年8月2,3,6,26日の4日間 1日3時間実施 のべ12時間

支援者  総合的な学習部会メンバー(6名)、大西貞憲氏をはじめ企業より4名
生 徒  1年生19名
場 所  小牧中学校図書室、コンピュータ室を中心

 

<当日までの経緯> 

@      学校(物的)環境や人的環境を自由に使えることを生徒に説明する。

A      1年2,4,6組の生徒に追究したい課題を理由と共に書かせる。

B      総合的な学習部会のメンバーが、それぞれ取り組ませてみたいと考える課題にチェックを入れる。

C      4個以上のチェックが入った課題を書いた生徒にシミュレーションの参加の可否を聞く。

D      シミュレーション参加生徒19名を決定する。

E      8月2,3,6,26日実施。

 

<8月2日の取り掛かり>

@ はじめに  4日間の目標と課題解決への意欲付け

A 4日間の物理的条件と最終発表について
 ・ 場所の自由性(図書室、コンピュータ室、理科室、音楽室等、どこでもok)

      道具の自由性(コンピュータ:インターネット、書籍、電話等)

      時間の自由性(12時までフリー)

      人の自由性(だれでもok)

      最終日に最大10分間で、この4日間を通して得たものをどういう形でもいいので発表。

B      大人の自己紹介 各自にお任せ(自分の仕事、興味・関心など)

C      子どもの自己紹介(課題の宣言を含めた自己紹介)

D      子どもや大人に対する質問  課題に対して、取り組みに対して

E      子どもの動きを見て、大人の配置を決める。

      記録はポストイットでする。

記号は2種類。支援→支  子ども→子

支 どう子どもに関わったかを記録する。そして、記載した事項に対する記録者の心の内を書く。

子 子どもの動きを記録する。そして、記載した事項に対する記録者の心の内を書く。

 

<生徒19名の課題>

      宇宙はどこまであって、どうやってできたのか

      なぜ人は眠くなるのか

      死とは何か

      人間が言葉を使うようになった理由

      どうしてお金にはコインやお札があるのか

      なぜ人は宇宙へ行っていろいろと調べるのか

      クモはどうやって糸をはるのか

      電話で話したりできるわけ

      なぜ飛行機は空を飛ぶのか

      なぜ学校ではアルボースが使われるのか

      織田信長は本当に歴史書にあるような人か

      なぜCDから音が出るのか

      なぜ人はガンになるのか

      なぜ人は日光に当たらないと生きていけないの

      電話にはあるのに携帯やPHSには線がないのか

      コンピュータ等の細かい部品はどうやって作るのか

      生きるとは何か

      命あるものはなぜ死ぬのか

      地球が温暖化していくとこの先どうなるか

 

 

*****<4日間で得られた知見>*****

 

○ 総則:総合的な学習のフレーズ「自ら課題を見つけ〜」の「見つけ」に含まれる深い意味

 生徒は「自ら課題を見つけた」と思っていた。4日間を終えてみて、これが大きな間違いだと分かった。 生徒は課題を見つけてはいなかった。単に課題を思いついたに過ぎなかった。

 いかに課題が生徒自身のものになっていなかったかを象徴するのが、ほとんどの生徒が行った「答え探し学習」や「写し学習」である。「答え探し学習」とは造語であるが、自分が掲げた課題に対応する資料や文献をインターネットや図書で探し当てる学習である。該当するものがあれば、その時点で追究は終わり、メデタシ、メデタシという学習である。読めない字が使われていようが、分からないようなことが書かれていようが、何が書かれていても構わない。論理の妥当性や一般性など求める必要なし。自分が掲げた課題に対する答えが、書物やインターネットの情報で手に入れることができればよし。それで何がいけないの?といった学習である。あとは資料を自分のノートに写して終わり、つまり「写し学習」を黙々とするのである。自らの課題を解決したいといった意識は非常に薄い。

 考えてみれば、授業でこうしたことが頻繁に行われている。例えば、社会科の授業において、教師が提供する資料は生徒にとって絶対のものである。教師が事前に教材研究をし、これぞという資料を提供し、学習を展開しているのがほとんどである。これは当然といえば当然のことであって、わざわざ不適切な資料を提供し、「表題はあっていても、これは求めたい資料ではないですよね」などといった授業を展開することは考えられない。こうした学習体験が、単に「答え探し学習」「写し学習」であっても、課題追究が進んでいると思わせてしまうのではないだろうか。そして、それよりももっと重大なことは、「課題が自らの課題ではない」ということに気づかない本人である。

 「生徒が探している答えはすぐに分かる。分かってからが面白いはず。それからが本当の課題」と幾度も嘆いていた部員がいたが、まさにそのとおりである。自ら課題を「見つけ」という「見つけ」の意味するところを改めて考える必要性を感じた。

 

○ 旭中3年目の取り組みの意味
 東加茂郡旭中学校は、学びの時間を創設して3年目になる。過去2年の試行錯誤を経て、今年度は一人一人で課題を決め、それを追究するスタイルにしたという。我が校が考えている形態に近い。過去2年は、主に教師がテーマを用意し、その中からグループで選択して取り組ませたという。その反省の上に今年度があるという。

 今年は「課題を決めるだけで1年間終わってしまってもしかたがない」という決意を持って臨んでいると聞いた。「課題ですべてが決まる」ことを過去2年から体験した結果だという。我々も現実にシミュレーションをしてみて、課題設定がいかに大切かが、今更ながらよく分かった。

 旭中では仮テーマを決めさせ、仮テーマでの追究をさせた後、本テーマ設定をするということと、取材・体験活動を必ず二度にわたって設定するという。最初の取材・体験で学んだことを生かし、さらに取材・体験活動を仕組むことをやってみるという。

 この夏、旭中の途中経過を伺った。仮テーマを提出させたが、このままでは行き詰まるテーマが実に多いということだった。

 課題決定までの段階が、総合的な学習の成否を握る鍵のようだ。

 

○ 支援の仕方の一般化

 シミュレーションの目的に「支援の仕方を一般化する手かがりをつかむ」ということがあった。残念ながら、支援どころではなかった。大人に支援を求めない生徒、こちらが仕掛けても、仕掛けに乗ってこない生徒、困っているに違いない生徒の支援をしようと寄り添おうとしても、困っていないと言う生徒など、予想外の行動に支援らしい行為ができなかった。
 いかに総合的な学習について生徒にイメージを持たせるか、そして、教師はどういう立場であるのかを知らせることが重要なのかもはっきりした。

○ 涙を流してしまった生徒
 「学校ではなぜアルボースが使われるのか」というテーマを追究していた生徒が、アルボースの成分に発ガン性物質が使われていることを発見した。これを参加者に伝えた時は、さすがに皆の注目を浴びた。「宇宙はどこまで〜」といった課題と違って、身に降りかかる課題になっただけに追究への意欲は増すに違いない。勢い、追究をさらに支援してやろうと思い、アルボースの製造会社に電話で直接問い合わせたらどうかとかなり迫ったところ、生徒は涙を流してしまった。自分にはそういう経験がないという。インターネットによる情報収集だけに閉じこもってしまう生徒。情報の向こうにいる人間に触れてこそ、おもしろさが分かるのだが、その良さが伝えきれないもどかしさ。

 

○ 追究の幅が広がらない生徒たち

 シミュレーションに参加した生徒は実にまじめである。黙々と図書室とコンピュータ室を行き来し、前述の「答え探し学習」をする。しかし、一向にこれといった答えは見つからない。普通なら追究方法を変えてみるのだが、それが変わらない。再度、図書室とコンピュータ室との行き来をする。周りには大人がいっぱいいる。生徒2対大人1の割合である。大人が今か今かと待ち構えていても、大人に支援を求めようとはしない。完全に肩透かしをくらった大人と、こういう私たちの姿に、大人は満足するであろうと思い込んでいる生徒たちとの3時間。実に長い時間である。

 「電話を使いたいなら使えばいい。車に乗せて連れていってもあげる」と言っているのに、なぜ追究が活動的にならないのか。

 

○ 追究が進むにつれて、自分の周辺に近づく追究をさせたい。
 初めはいくら大きな課題であってもいい。仮に「宇宙はどこまで続くか」という課題であってもいい。追究が進むにつれて、それを自分の身辺に引き寄せて考えさせることができないだろうか。どこかに必ず答えが載っているはずと決め付け、その資料を追い求める活動だけでは、本人もそれを見守る支援者も面白みに欠けるだろう。この思いを上記の小見出しにしたのであるが、まだまだ自分自身ですっきりしていない。アイデアがほしい。

○ 情報の向こうに人がいることを実感させてやりたい
 旭中の実践の求めるところは、人とのふれあい、地域社会とのふれあいであるように思う。資料として添付した佐伯氏企画の「インターネット教育からInteractive Educationへ」では、これからの教育は「ふれあいを大切にした教育」であるとも表現された。そして、他人とのふれあいを通じて、自分とふれあう、これが文部省のいうところの「自分探しの旅」に通じるところであろう。「情報の向こうの人を通して己を知る」、このような学習を仕組んでみたい。
 今回のシミュレーションを振り返ってみて、この点が一番欠けていたのではないか。追究の過程で、生身の人間との接触が生まれないので、面白みに欠けたのではないか。それは単に取材活動・体験活動を指しているのではない。周りにいた大人との接触も大切な要素である。大人に自分をぶつけてみて自分を知る、こういったことさえ体験させることができなかった。

 

○ テーマをしぼればいいというものではない

 テーマを学校である程度しぼり、「環境学習」「国際理解」などの内から一つ取り上げることはいい。しかし、テーマをしぼったところ、今回痛感した問題がそれで解決するわけではない。ダイオキシンについて調べるといったしぼられたテーマであっても、生徒が自分の身に引き寄せない限り、その課題は単に「答え探し学習」の原動力しかならない。ただし、テーマをしぼれば、事前に自分の身に引き寄せさせる手立てを用意できる可能性は大きい。

 

○ 総合的な学習への思いをどう生徒に伝えるか
 「こんな追究をしてほしい」という教師の思いを具体化したものを生徒に伝える必要がある。旭中では、附属の活動の様子をビデオで見せたという。口頭ではなかなか伝わらない。現実には、教師間で共通理解を得ることも難しい。今後、保護者にも「我が校ではこうした総合的な学習を行います」という説明も必要であろう。実現したい生徒の姿を明確にする中で、プレゼンテーションの方法を考えておきたい。

○ 総合的な学習にも基礎学習が必要である
 以前から総合的な学習にも基礎体力がいると考え、「総合的な学習B」と称して具体的な提案をしてきた。シミュレーションをしてみて、さらに意を強くした。
 ある方から私案で示したように、教科から総合的な学習Bで扱う項目を出してもらうことは、教科の責任逃れを容認することではないかと指摘を受けた。
 それについては、教科で身につけさせることができなかったために総合的な学習が生まれたのではないのかと問い返したい。もちろん、教科の指導が従来指摘されるように知識の切り売りでは、とても「生きる力」は身につかない。教科学習の変革も必要だが、生きる力を培うには、総合的な学習の理念は重要である。そして、それを具現化するためには、総合的な学習を支える基礎体力が養うことが大切である。それがないと、教師の顔色をうかがう調子のよい「答え探し学習」「写し学習」を再生産する時間となりかねない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<資料>

佐伯胖著 「新・コンピュータと教育」に明示されていた生徒の姿

 8月に聞いた佐伯氏の講演「インターネット教育からInteractive Educationへ」は実に興味深かった。

 佐伯氏は、いま、子どもたちに必要なことは、「勉強するとエラクなれるよ」でもないし、「勉強は楽しいよ」というまやかしの「誘惑」でもない。そうではなく、「わたしはあなたに学んでほしいのです」「あなたとともに、私も学びたいのです」とよびかけてくれる他者(you)の声であると言いきった。

 その上で、Interactive Educationというのを、人々の学びを「他者のよびかけに応える」活動と「他者によびかける」活動、さらに「異なる人を“あなた”にする」活動を、教育の根元に、否、あらゆる人間の営みの根元におこうという、私たちの願いをあらわす言葉であるとした。さらにこのことを企業も、市民も、子どもたちも、学校も、すべてが自覚しなおして、再出発をしようという、呼びかけの言葉であると締めくくった。

 講演後、質問ができる時間があったので今回の本校の取り組みについて話をした。「生徒はこちらが期待するように疑問を持たない。答えがあればそれで満足する。「分かった」と気軽に言う。学ぶというのはどういうことなのかをまさに学ばせていない現状を痛感した。何かご示唆をいただきたい」といった質問である。

 佐伯氏は「インターネットを使って、単に「答え探し」が続くのを心配している。内から湧き上がるような疑問、怒りにも似た疑問を持つことが必要である。重要な指摘をいただいた」との返答をされた。質問に対する答えではなかったが、産学官民が一体となって、子どもたちの学びを豊かにするネットワークを作っていこうとする新たな始動にあたって、重要な質問ができたと思った。

 その後、佐伯氏の著書「新・コンピュータと教育」に再度目を通してみると、今年、我が校が体験した衝撃がすでに書かれてあった。ポイントだけ紹介をする。

 

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(p147) 

 ところで「調べ学習」というのは、どういう「学習」なのだろうか。(略)

 要するに、まず、子どもたちが「これこれについて調べる」という課題をもつ(自分で決める場合も、教師から与えられる場合もある)。そのあと、八方手を尽くして情報収集して、それらを「ノートにまとめる」ということである。そこに「感想」でもつけば二十マルがもらえるというわけである。どうしてこれが「学習」になるのかはわからないが、ともかく、こういうことを「調べ学習」と呼んでいるのだ。

(略)

 多くの場合は、子どもたちには「仮説」もないし、したがって「検証」もない。自分なりの疑問も発見もない。対立する意見の交換も議論もない。ただクイズ番組でのクイズへの「解答」を求めるように、「これこれについてはどうなっていますか」と問い、「こうなっています」という答えをみつければそれでオシマイという断片的知識の収集だけである。誰かが「ここがおかしい」といっても、「でも、調べたらこう書いてありました」といえばそれで済んでしまうことが多い。(略)

 こういう「調べ学習」というのが、わが国の「お勉強」の伝統であり、小中学校どころか大学生の卒論、さらには、学者の「学術論文」にまで行き渡っている。

 こういう「お勉強」文化の土壌には、インターネットというのは格好の道具になる。インターネット利用の学習となると、「ともかくデータを集めたら、こういう結果になりました」という「調べ学習」のオンパレードになる。「だから、何なのだ」「なぜそうなのだ」「ほんとうに(つねに、どこでも)そうだと言えるのか」「もしもそうだとしたら、今のこのわたしはどうでなければならないのか」というディスカッションがあまりにも弱い。

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 ちなみに「V 学びの共同体をつくる」という章は、実に示唆に富む。小見出しだけを見ても、今回のシミュレーションから得られた知見を想像させるものは多い。見出しとその要旨を簡単に示しておく。

 

      巨大データベース共同体(p143)
インターネットは学校に「人との人の生き生きとした(共愉的交流)をもたらすのか、それとも学校がただ巨大なデータベース共同体に飲み込まれるのか」という点である。

      パッケージ化されるデータ情報(p146)  
問題は、学校、とくに小中学校で、こういう「データ」の洪水をどう活用すべきか、ということである。

      インターネット利用=拡大「調べ学習」?(p147)
今日、学校での「インターネットを利用した教育実践」は数多く発表されている。ところがその大部分は、いわゆる「調べ学習」の成果報告だといってよい。

      相互「データベース」化(p150)
子どもたちがインターネット上での学校間やクラス間でかわす「交流」も、互いがデータベースになりあうだけということが多い。どちらかが他方に「質問」を送るのだが、その内容は「〜について教えてください」というものである。それに対し、答える側は「〜は…です」と答える。まさにクイズの「問題」と「答え」である。「答え」が得られれば、せいぜい「どうもありがとうございました」でたいがいはプッツンである。

      コミュニケーションの二つの側面(p158)
「情感的交流」と「作業的交流」の二つの面があるが、電子メディアによるコミュニケーションは、この二つの側面のどちらに偏る傾向がある。他の場合のコミュニケーションと違う。

      ことばの背後にある「人」に応える(p160)
情感的交流と作業的交流というコミュニケーションの二つの側面がバランスよく保たれるコミュニケーションとはどういうものだろうか。それは人がことばの背後に息づいている「人」を感じ取り、その「人」にこちらも人間として応えることであろう。

      人の背後にある「文化」を畏れ敬う(p163)
何気ないことばの背後に、そういう文化の違いを発見し、それなりの歴史を感じ取り「理解」できることの背後にあるもっと大きな「理解できないこと」の存在に気づき、それを「畏れ敬う」のである。

      科学者たちとの対話(P170)
子どもが科学者や専門家たちに質問をし、回答を得るということが、子どもたち自身の科学的探究を促進することになっているかは注意深く見ていく必要がある。それは、子どもたち自身の問いがどんどん発展し、あらたな問いを生み出しているか、ということを見ることである。なによりも子どもたち同士が互いに意見を出し合い、相互に吟味しあっているか、ということである。

      「疑問に思う」ということ(P176)
人がなんとなく他人にものごとをたずねるのは、「問いたくなる」背景があり、必然性がある。そういう背景や必然性は、それなりの文化や慣習から生まれたり、別の目的や課題に埋め込まれていたりする。コミュニケーションというのは、そういう「問いの背後に広がる世界」を察知しあって、それに共感するとともに、それに即した「答え」を提供するということでなければならないだろう。

      「議論」の教育(P185)
「学び合う」共同体をつくりあげるためには、ほんとうに「学び合う」議論の仕方を身につけなければならない。ネットワークによるコミュニケーションを、きちんとかみ合った「議論」にして行くのは容易なことではないが、むしろ、これこそが、ネットワーク時代にもっとも必要とされるコミュニケーション能力であろう。

      「他者」意識の教育(P188)
「自分」にとって自明なことは「他者」にとってはまったく自明でないかもしれない。「自分はこう思う」のは、相手にとっては「勝手な思いこみ」に見えるかもしれない。さらに「自分にとってわかりやすい」ことは「相手にとってわかりやすい」ことと同じではない。

      「自分」との対話(P189)
コミュニケーションというのは、他者との対話をしながら、同時に、自分との対話を深めているものなのだ。「学び合う共同体」をつくるコミュニケーションの条件は、それを通じて、「自分」がどこまで見なおせるようになるかということである。

      教師の役割−知の媒介者として(P191)
教師は子どもたちにとって、「学びにつき合ってくれる人」となること。コミュニケーションが空虚な情報パッケージの交換にならないように、ことばにならないその子どもなりの「こだわり」を認め、その子どもが他人には見えないしアクセスもできない独自の、尊重されるべき世界を持っていることを容認する他者となること。その子どもが見ようとしている世界を、いわば「斜め後ろから」ともに見る。その子どもが不思議に思うこと、楽しいと思うこと、つらいと思うことを、ともに感じる、そういう存在になること。そういう意味での「ともにつき合ってくれる人」を子どもたちは切に必要としている。