骨太の骨は何か(プレゼンテーション編 −その1−) 2000.11.23 |
はじめに 「プレゼンテーションを作る」という表現を以下の文章の中で使っているが、教育コンサルタントの大西氏よりその言葉の的確性について指摘を受けている。「プレゼンテーションを作る」ではなく、「プレゼンテーションをする」のであると。現在子どもたちはMS社のパワーポイントでプレゼンを作っているが、それが完成すること=プレゼンができたということではけっしてない。あくまでもコンピュータで作っているものはプレゼンテーションをするための一資料を作っているに過ぎない。そういう意味からも「プレゼンテーションを作る」という言葉は的確ではない。しかし、ここでは文章の勢いを出したいために「プレゼンテーションを作る」という言葉を使うことをあらかじめ述べておく。 プレゼンでの骨太の「骨」は「相手意識」 新聞作りが終わり、今度はプレゼンテーションを作る段階に入った。新聞作りであれほど苦しんだので、心してかからないと同じことになると思い、「プレゼンテーションとは何か」といった授業を行うことにした。自分の考えるプレゼンテーションにおける骨太の「骨」を最初に指導していこうということである。 では、その「骨」をどう考えたか。それは「相手意識を持つこと」であると考えた。プレゼンテーションをする側がだれを対象にプレゼンをするのか、それをどれだけ意識し続けているか、これがこの段階における「骨」だと考えた。 もし仮に現在子どもたちが作っているプレゼンを我々教師が全部見せられるとしたらどうだろう。耐えられないのではないか。そういったものを時間をかけて作らせるのはどうか。たとえにならないかもしれないが、ビデオ撮影が家庭でもできるようになったおかげで、友人宅を訪問した折に延々と子どもの運動会などのビデオを見せられ辟易とした経験はないだろうか。相手意識もない自己満足で終わるビデオ放映、それに近いことが起こりそうでならない。 今までの学校教育を考えてみると「相手意識」を大切にした取り組みは数少ないように思う。例えば、作文はいろいろな場面で書かせてきているが、読んでもらう対象をはっきりさせた上で書かせている例はどれほどあるのだろうか。 そこで、私は次のような授業を行った。 「プレゼンテーション」と黒板に書く。声を出して全員に読ませる。当然、だれもが読める。そこで「プレゼンテーションって何?」と聞く。答えに行き詰まる子どもたち。読めるのに分からない「プレゼンテーション」という言葉! では、それに近い言葉はないかと聞く。すぐさま「プレゼント」という言葉が返ってきた。予想したとおりである。「プレゼントはもらって・・・」「うれしい」「そうだ、今から君たちが作るプレゼンテーションは見た人が喜ぶもの、ああ得したなあ、見てよかったなあ、うれしいなあと思うものでなくてはいけない。ケッ!こんなもの見るのじゃなかった!というようなものはプレゼンテーションではない」と強調した。 「プレゼント」という言葉で相手意識を持たせた後、それぞれの班でだれを対象にプレゼンテーションを行うのかを考えさせた。そして相手を考えさせた後、自分の班は何を一番伝えたいのかを考えさせた。以下は発表内容である。 ・ 6組2班 「先生たち」へ「介護の重要性」 ・ 3組6班 「主婦の人たち」へ「電気代の節約法」 ・ 6組6班 「市役所の人たち」へ「商店街の人たちの考え」 ・ 4組5班 「取材でお世話になった寺井さん」へ「創の時間を終えての気持ち」 ・ 4組7班 「ボランティアの人たち」へ「助け合いとふれあい」 ・ 1組5班 「すずかけ共同所の人たちと先生たち」へ「ボランティアの大切さと大変さ」 ・ 4組3班 「主婦の人たち」へ「川が汚れて危ないこと」 ・ 2組1班 「おじいちゃん、おばあちゃん」へ「長久手の合戦」 ・ 3組2班 「先生たち」へ「昔の小牧と今の小牧の違い」 ・ 2組3班 「幼稚園の先生たち」へ「園庭開放について」 「だれに、何を」を見てみると「なぜ?」という言葉が湧きあがってくるのではないだろうか。 「先生たちに介護の重要性を」「なぜ?」 「先生たちへ昔の小牧と今の小牧の違いを」「なぜ?」 「幼稚園の先生たちへ園庭開放を」「なぜ?」 どうだろうか。自分たち以上に先生たちは「介護の重要性」や「昔の小牧と今の小牧の違い」を知らないとでも言うのだろうか。該当班に次のように突っ込んだ。「おい、先生たちはな、小牧山が昔は帆巻山と言っていたなんていうことは百も二百も承知しているんだ。先生たちにプレゼンするというのはよっぽどだぜ。先生たちが見てよかったと思えるものを示さないとプレゼンではないよ」と。 「私たちはこんなに調べました」というだけのプレゼンテーションを見せようとしているのか。それだけでは子どもも教師もおもしろいわけがない。強い指導の必要性を感じる。教えることと学ばせることの整理の必要性がここにもある。そして、この段階でのやりとりは、その前の段階の「新聞作り」からの影響が出ている。新聞で何を伝えたかったのか。中身を絞り込んだはずの「小見出し」を再度眺めさせてみると、子どもたちは自分たちの甘さに気づくのかもしれない。 それぞれのフレームに載せる内容を書くシートに書き込ませる前に、印刷ミスをした紙をいっぱい渡した。そして、作った新聞を見ながら、相手に何を伝えたいのか、それだけを考えて思いつく言葉をその紙にどんどん書くように指示した。そして「1枚の紙に多くの言葉を入れない。絞ること」これを第二の指示とした。 そのため、「冷蔵庫」「節約法」といった単語しかないフレームも出てきた。フレームの整理はある程度の数が増えてからやれることで、初めから一本道を歩くようにできるわけではない。このフレームを最初にもってこようか、あれを最初にもってこようかという試行錯誤ができてこそフレームの整理ができるというものだ。その意味で1フレーム1枚を原則とした印刷ミスの紙は、ダメなら気軽に捨てることができるという意味でも重宝した。 そして次に大切にしたことは、やはり「相手意識」である。「主婦の人たちに電気代節約法」という班は、始めのフレームはどこの班もあるような定番「タイトルと調べた班員名」が並ぶフレームである。どうもインパクトがない。面白みがない。 「お母さんに見せるのでしょ。お母さんたちが初めに何かおやっ?と思うようなフレームできないかな。これじゃあ、当たり前すぎて面白くない」とダメを出した。 その結果、最初のフレーム案はお母さんの顔が画面に大きく写り、口から「はあ〜」というため息が出て、電気代の節約法というフレーズが出るという案となった。なかなかやるじゃないか。 |