子どもに伝えたい<三つの力> 生きる力を鍛える 斎藤孝 NHKBOOKS

コメント力(要約力・質問力) ことば次元 母国語能力を鍛える

段取り力 活動次元 生活での活動、場を作る力、動けるからだ作り

(技・方法を)まねる盗む力 からだ次元 身体的想像力を鍛える、技化の意識

学ぶことは他者のあこがれにあこがれることである。

子どもに「何が好きか」と聞くだけではなく、まず「自分はこれが好きだ」という姿勢を見せることが、子どもの興味と関心を生み出す。
自分が出会ったことがないもの、まったく知らないものに対して興味や関心を持つことはできない。
そうしたまったく新しい世界に出会う媒介となるのが、教師の役割である。

個性と創造性にあふれるモーツアルトが創造的活動をなしえたのは、反復練習による音楽技術の体得による。こんなことは当たり前のことなのに、教育界においてさえも、反復練習を軽視したり嫌悪したりする人が増えている。

筋道を立てて論理的に骨子を要約して話すということは、一つの技である。はじめからできる人は少ない。練習すればそれだけの効果がある。かいつまんで話す練習をしているうちに、知識も定着してくる。ところが、こうした練習をくりかえし行っている授業はほとんどない。

算数・数学は、つねに効率性を追求し、無駄をそぎ落として、必然性のあるもののみで連続的に構成される。最小限必要なものだけが、必然性にしたがって秩序づけられていく。算数や数学の問題を解くということは、こうした思考様式をなぞりながら技化することにはかなない。

対話力やコミュニケーション能力の根本をなすのは、要約力である。対話が不毛になる原因のもっとも大きなものは、要約力の低さであると私は考えている。相手の言っていることの本質を的確につかまえる力がなければ、どれほど対話を続けても生産的にはならない。

聞くことは、アクティブな構えでなされなければ本当に聞くことにはならない。話し手に対してレスポンス(応答)することを前提にして聞くことによって、話は身に入ってくる。

段取り力は、細かくタイムキーピングすることではない。むしろ、枝葉末節は捨てて骨組みをきっちりと押さえ、大過がないようにする力である。重要なツボをしっかり押さえておくことによって、かえって融通が利くようになる。そうした自由な動きを可能にする力が、段取り力である。

肝心なことは、つねに段取り力をきっちり組むという意識で算数や数学を行うことだ。たんに教科の一部として、そこだけに閉じこめられた世界の問題だと捉えてしまえば、算数や数学は応用が利かないものとなる。私は、算数や数学を応用の利くトレーニングの場とするためには、それらを国語の訓練として捉えなおしてみるのがよいのではないかと考えている。少々複雑な照明問題や文章題を、数式による解答を見せておいたうえで、言葉で的確に説明させるのである。

宣誓。野球を愛する私たちは、あこがれの甲子園球場から全国の仲間にメッセージを送ります。苦しいときはチームメイトで励まし合い、つらいときはスタンドで応援してくれている友人を思い出し、さらに全国の高校生へと友情の輪をひろげるため、ここ甲子園の舞台で、一投一打に青春の感激をかみしめながら、さわやかにプレーすることを誓います。

こうした場を作るための手がかりとして、「授業デザイン(授業レシピ)」がとても役立つ。これは、とてもシンプルなものだ。ねらいをはっきりさせ、おもしろいテキストを用いて、キーワード(キーコンセプト)をしぼり込むというものだ。いちばん重要なことは、授業を運ぶ段取りである。これは、あまり細分化しないように五から七段階程度にする。コツは、「一人で考える時間」と「グループで作業をする時間」と「クラスでの時間」をうまく組み合わせることにある。これらは、活動と経験の質が自ずと異なるものであり、求められる力も異なるからだ。この段取りに変化がない授業は、子どもをあまり活性化させない。

私はすべての学力の基本には、母国語能力があると考えている。母国語能力を徹底的にトレーニングすることによって、自分の思考を自在にコントロールできるようになる。自分の無意識と意識の境界の行き来をスムーズにすることもできる。つまり、自分がなんとなく感じていてもどかしく思っている思いを、言葉に出してあらわすことによって、心がすっきりとしてくるのである。母国語能力をしっかりとトレーニングすることは、心の情緒の安定につながる。母国語能力の向上のためには、名文を暗誦・朗誦することが不可欠だ。何度も反復して朗誦することによって、内容以上に言語の持つ根源的なリズムとしての力が、自分の身に染み込んでくる。この蓄積が、たとえば話すときや文章を書くときなどにも生きてくるのである。

自然言語の世界と図式の世界をつなぎ、往復できる力をつけること。これが、各教科を通じて鍛えられるべき力だと考える。言葉を換えれば、要約力であり、また段取り力でもある。先ほどのようなくどいまでの日本語による説明をしてから数式を見ると、その要約の見事さ、数式の合理的な美しさに気づきやすくなる。自然言語で説明すれば多くの手間がかかってしまうものが、数式だと数行であらわすことができる。こうした数学的な合理性と美を問題を解くたびに感じることが、この「算数を国語としてやる」方式のねらいの一つである。

算数や数学の学習法においては、ひたすら問題を解いてパターンを覚え込むやり方と、解き方をじっくり考えさせるやり方の両極端に分かれがちである。自分がやっていることの意味を説明することができないのも問題であるし、一方でたとえば、「マイナスとマイナスをかけるとなぜプラスになるのか」について延々と議論をさせるタイプの授業もまた、数学の本質をついているかもしれないが、トレーニングメニューとしては弱いと考える。極端に本質的なことを子どもに直接考えさせるよりも、ノーマルな算数・数学の問題をきちんとした日本語で説明させる練習のほうが、むしろ数学的な論理力をみにつけさせるための王道ではないか。