NHK人間講座 「学歴社会」という神話 苅谷剛彦 

アメリカにおける「結果の平等」の意味
機会の平等の一層の徹底と、にもかかわらず公平な競争を阻む、歴史的に累積された負の遺産(=差別や貧困)に目を向けて考え出された平等主義の考え方だったのである。

機会の利用能力の平等とは、先に述べた同じスタートラインに立つために、それまでの負の遺産をできるだけ除去しようとする「人間的能力」の発達の保証=補償をさすことは明らかである。他方、グループ間の平等とは、一人ひとりの個人の違いを打ち消そうというのではなく、あくまでも、黒人など他の人種の人々がグループとして、白人並みに機会の平等の恩恵に浴する条件の整備を求める考え方である。言い換えれば、全員を無条件に同じに扱うのではなく、機会の均等を達成する上で、グループ間の差異がなくなるような平等をめざす考え方である。

カテゴリカルな把握ではなく、すべての個人を同じように処遇することに目を向けるのが、日本版「結果の平等」である。

「知識重視」はすべて「詰め込み教育」なのか?
これまでの検討からも明らかなように、学歴社会を教育問題の「元凶」とみなす見方に私たちの教育認識は強く縛られてきた。高校入試からの偏差値追放や大学入試における試験科目の削減、推薦入試・AO(アドミッション・オフィス)入試の導入など、直接入試に関係する改革の試みはいうに及ばず、受験や入試との結びつきから教育を解き放とうとする試みが、教育改革を先導してきたといっても過言ではない。

例えば、入学試験全般を罪悪視し、忌避するという感情に導かれることによって、私たちは教師が知識を教えることを、「詰め込み教育」とみなす。しかも、学歴は肩書きだけで実力とは結びつかないという学歴社会の神話に囚われることによって、私たちは「学校が伝達する知識は役に立たない」という知識無用論を生みだし広めてきた。受験にしか役立たないとみなされた知識を教えることは、詰め込み教育である。そういった「学歴社会=受験教育」への反動が、過度の知識軽視を生み出しているのである。

その結果、「詰め込み教育」のラベルを貼られないよう、子どもへの「指導」ではなく「支援」こそが教師の役割だという考えが「新しい学力観」のもとに導入された。しかし、とりわけ小学校レベルではそれが行き過ぎた面もあり、学習における理解や定着をおろそかにする風潮を一部で生んでしまった。

あるいは、受験を目当てにした、外からのインセンティブ(やる気を引き出す誘因)に導かれた学習を罪悪視することへの反動から、子ども自身の学ぶ意欲を学習の中心に据えようとする「子ども中心主義」の教育が唱えられてきた。そして、意欲を高めるためには子どもの参加や活動が重要だとの見方に導かれ、活動主義・体験主義的な教育の試みが導入されている。

しかし、たとえ学習の導入部において、子どもの興味や関心を高めようとする授業が重要だとしても、そこでの関心や興味が学習の実質に結びつき、理解を高め定着させることがどれだけ図られているのか。そこにまで実践が及ばなければ、「その時その時・その場その場」の楽しさだけを強調する授業に終わってしまう。子どもに自分たちの考えを発表する機会さえ与えれば、それがそのまま「自ら考える」力の育成につながるといった短絡的な実践も、形ばかりの「主体的」な学習にとどまるのである。

「楽しい授業」と「楽しいだけの授業」
しかし、「生きる力」の教育を行いうる教師をどのように(再)養成できるかといった問題ひとつ取ってみても、準備不足による改革のあわただしさが思わぬ結果をもたらしかねないことは容易に予想がつく。

例えば、「総合的な学習の時間」によって、子どもが何を学ぶのか。そこでの学習をどうすれば組織できるのか。こうしたことを教師たちに教える手だてはまったくといっていいほど確立していない。各種の教育雑誌や教師向けのマニュアルが作られつつあるが、それをもとにしても、子ども一人ひとりへの対応が鍵となる以上、それぞれの状況に応じて手探りでやるしかない状態である。その意味で、「生きる力」の教育は、授業の場面場面での教師の判断力・洞察力にゆだねられる部分が大きいのである。そして、そうした判断力・洞察力をそれぞれの教師がどのように鍛えられるかということについて、まさに「子どもとともに学ぶ」しかないのである。

「子どもとともに学ぶ」というと、一見子どもの立場に立った理想的な教師像のようにも映る。しかし、「教えること」という大きな枠組みにおいては、学習をリードできない状況が生まれる余地が拡大しているということでもある。子どもとともに学ぶことでしか実践の難しい方法であれば、それがどのような成果をもたらすのかを保証する基盤は弱くならざるをえない。

公教育の役割
学校が他の機関よりも専門性において求められているのは、なによりも「知的」な側面での子どもの教育である。その面での学校の責任は大きい。学校という機関以外では公共的に提供できないサービスが、知的な面での教育なのである。

この点で、理解や定着の上に発展や応用があるという、これまた教育界では当然のことを再度改めて強調しておきたい。学習の理解や定着を図るための授業の工夫は、知識をベースにしているだけに、研修可能である。興味関心をもたせることの工夫が求められるのも、その先に理解や定着があるからであって、それとの結びつきを欠いては、楽しいだけの授業に終わるだけだ。そこからいかにすれば問題発見・問題解決につながる具体的な方法があるのか。それを真剣に探っていくことが今まさに求められている。

「基礎・基本」はドリルや宿題ですませ、それとは別立てで「総合的な学習の時間」を組織しようというのであれば、理解も定着も図れないまま、形だけの活動主義的な授業が広まっていくだけだ。「総合的な学習の時間」で求められ、扱うことになる知識が、教科で学ぶ知識とどのように関係しているのかをきちんと位置付けることが重要なのである。