市子連で講演 「地域の子どもは自分の子ども」

2002.3.3 勤労センター

1 教育は学校教育だけでできる時代ではな

 現在の学校の出校日 220日くらい → 学校五日制で200日
 しかし、一日中学校にいるわけではない。8時間。1日の三分の一
 つまり、70日弱 1年の五分の一。
 数学的に説明すると、学校教育の責任はわずか五分の一しかない。
 あとは家庭や地域での教育力。

 数学的説明はなかなかおもしろい。
 なぜ年をとると1年が過ぎるのが早いのか。
 13歳の子どもの一年は十三分の一。
 45歳の私の一年は四十五分の一。だから年をとると1年が早い。

2 今の子どもとコミュニケーションをとるのが難しい

 教師は、自分の子どもが教えている子どもと同じ年齢になると一人前になると先輩から聞いた。
 なぜなら、
 コミュニケーションがとれる。子どもの好みがわかる。会話ができる。
 しかし、今は難しい。
 好きな漫画やゲームの名前さえ言えない。子どもにはあらゆるところから多くの情報が入る。
 昔は、ほとんど見るテレビが同じ。 
 例えば、「巨人の星」。 その話題をしたら子どもとコミュニケーションがとれた。
 そして、長く長く持たせることができた時代。我慢ができた時代。
 球を1球投げるだけで13分間持たせられた。今はあのような進行をしていたら、チャンネルを変えられてしまう。無理。

 落語番組もなくなった。じっと聴いて理解することが大人も子どもにも受けない時代。
 自分の趣味から見る子どもの変化 =落語を聴く子ども=
 言葉が分からない。小咄。「ネズミ掴まえた」と「鶴の恩返し」

3 子どもを育てるということ

 夏休みのラジオ体操の当番であいさつができない子どもを痛感。
 学校ではできているのに・・・? ある意味では威圧?
 ・・・おい、私は学校の先生だよ・・・
 「玉置の父さんは学校の先生だよ。」「じゃあ、あいさつしなきゃ」

 「先生に怒られるでしょ」
 「ほらっ、おばさんに怒られるでしょ」
 本質はそうではない。怒られるからダメなわけではない。
 怒る気持ちが失せる。

 見取ることの大切さ。子どもに場を与えることも子どもを育てること。

 我が子どもが公園でB銃をを乱射。おじさんに怒られる。
 一人黙々ひろっていた我が子を最後まで見取って、ジュースをくれた。最後まで見取ること、これが教育。

 我が子が総合的な学習でアンケートをとることになった。
 本屋さんの前で大人に質問。丁寧に答えてもらえた喜び。ほめてもらえた喜び。

 小牧中の研究発表会で子どもが絶賛される。それは認めてくれる大人の存在があったこそ。
 認めてくれる大人。声をかけてくれる地域。だから張り切って子どもは取り組む。

 「注文ボランティア」での話。電球の球の交換。わずか3分の仕事。しかし、喜びは大きい。自分の存在感。

 子ども会は学校と違ったアプローチによる子どもを育てる場。
 地域の子どもも自分の子どもと思って接していると、自分の子どもも地域の方は自分の子どもとして接してくれる。

 肩に力を入れすぎず、子どもに活躍の場を与え、見取る、そんな子ども会の運営をしてほしい。
 私も息子をほめてくれた地域のおじさんに報いたい。がんばりましょう。